律令制下の地方行政区画の五畿七道の中のひとつです。五畿とは都の周辺の五ヶ国で山城・大和・摂津・河内・和泉の国のことで、七道とは東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道をいいます。
東山道は近江(滋賀県)美濃国・飛騨国(岐阜県)信濃国(長野県)上野国(群馬県)下野国(栃木県)陸奥国(福島・宮城・岩手・青森県)出羽国(山形・秋田県)の諸国で組織された行政区で、多くの金銀や食料が生産され豊な国々でした。その国々を統合する為に官人や租庸調を納める人々・兵士や防人たちが都を目指し、国司達が往来した東国統治の整備された重要な道路でした。
東山道は官道で、自然発生的な生活道路とは違い、国家が対蝦夷政策遂行のために情報の伝達、兵士や官人の移動、それに伴う物資等の移送などを迅速に進める必要から造られた道です。
律令東山道は伊那から北上して松本に入り錦織駅(旧四賀村の錦部と推定)から保福寺峠(標高1,345m)を越えて浦野駅(青木村の岡石地籍と推定)を通り、上田の信濃国分寺の前を通過して、小諸市から碓氷峠を越え群馬県に入る道路でした。
中路駅路には、原則として30里(16㎞)ごとに駅家を置くことが決められていて、駅馬数も10疋に定められていたが、保福寺峠は難所なので錦織駅と浦野駅の駅馬は15疋と定められていました。
駅馬や伝馬は公用で旅行する官人たちの交通機関であり又公の通信連絡、文書の逓送(ていそう)などに用いられていた。一般の公民が駅馬や伝馬を利用することはできませんでした。
江戸時代も東山道は保福寺峠街道として利用され、松本~上田を結ぶ重要道路で松本藩主の参勤交代も行われていました。
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