青木村の殿戸の農業と養蚕業を営む小林菊右衛門と寿ゑ夫妻の次男として生まれた。
家計は楽ではなかったが、向学心の強い慶太は、苦学のすえ29歳で東京帝国大学を卒業 した。その後、農商務省に入省して30歳で久米万千代と結婚した。 結婚と同時に、久米家の祖母の実家、五島家(元上州沼田藩藩士の家)を再興した。
五島慶太(妻万千代の祖母の実家 五島家の養子になる)
農務省から鉄道院に移り課長になったが、大正9年鉄道院を退職して、武蔵電気鉄道株式会社常務に就任し、昭和11年東京横浜電鉄、目黒蒲田電鉄取締役社長に就任した。 これ以降慶太は次々に鉄道会社をM&Aなどの手法で手中に収め、「電鉄王」になり、昭和17年に東京急行電鉄と商号をかえた。
昭和19年五島慶太は運輸通信大臣に就任した。名古屋駅の交通緩和や船員の待遇改善などに貢献し、のちに船員関係の各種機関から感謝状が贈られたそうだ。
昭和27年東京急行電鉄株式会社取締役会長に就任し又、昭和30年には学校法人五島育英会を設立し初代理事長に就任した。
五島慶太は、長野県の観光開発にも助言や援助をしていた。 なんとか郷里・信州のために貢献したいと、訪ねてくる長野県の実業家とも会い、病で衰弱してはいたが、熱心に耳をかたむけていた。
昭和33年、五島慶太は青木村の殿戸地区に公民館を建設、寄付をした。 この公民館の建設は、祖先が喜んでくれるだろうと思って建てたと話していたそうだ。
ホームページ掲載にあたり「五島慶太の追想」「五島慶太傳」「もう一人の五島慶太伝」の本を参考、一部引用させていただき、又、青木村の本家小林様、生家を管理されている上野様より当時の写真と本をお借りし、貴重なお話もお聞きしました。
ここに御礼申し上げます。
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