明治15年(1882年)4月18日 |
農業を営む 小林菊右衛門・寿ゑ夫妻の次男として生まれる。
※生家は、殿戸地区の殿戸峠入口にあったが、平成30年8月14日(奇しくも慶太翁の命日)に落雷により焼失。又、小林家は、同じ殿戸地区の平地に居を構えた。 |
父、菊右衛門は熱心な法華経の信者で朝起きた時、夜寝る前に必ず南無妙法蓮華経を唱えていた。母は頭が良く、物を覚えるのは村一番と言われていた。
信仰深い両親は、慶太が東京に修業に出て1ヵ月に1度くらい手紙を出すと、それをすぐに開封せず、かならず村の鎮守の日吉神社の社殿にあげ、息子の健康と出世を祈り神に感謝してから封を切って読んだ。
慶太が帰省した時など、ものを言う前に「慶太を、よくここまで無事に過ごさせて戴いて有難い。これからも健康で、偉くなるように。」と拝んでから、話はじめたという。 この両親の信仰心を慶太は「父と母が自分の宗教心に与えた感化は偉大で、私は心から感謝している。」と語っていた。
兄、虎之助は家業を継ぎ、後に青木村の村長となり又県会議員もつとめた。
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慶太生家
日吉神社 |
明治22年 青木村小学校に入学 |
子供の頃は、だいぶ餓鬼大将だったようだ。いつも親分気取りで皆の大将になって威張っては、指図していたが、弱い者を泣かすようなことはしなかった。この頃の幼な友達の話しが残っていた。
「子供の頃、一緒に遊びました。夏は水浴び魚獲り、秋は茸採りなどしました。鎮守の森で枯葉を燃やして巡査に怒られ、それから巡査をみつけると「巡査の馬鹿野郎」とどなり、よく追いかけられていました。 元気は良かったが、人を泣かすようなことはあまりなかったね。」(花見 多治郎さん)
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多治朗さんとサイさん |
「トランプや花合わせが好きで良く遊びに来ました。トランプは上手で、大工道具などもうまく使っていました。
利口な人で、なにをしてもすばしっこかったです。中学ごろから英語を大きな声で読んでいて、大変な勉強家でした。」(上野 サイさん)(多治郎さんとサイさんの写真は、昭和34年5月に東京急行電鉄の方が撮った写真である。)
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明治28年 長野県尋常中学校上田支校に入学 |
青木村から上田まで12キロ、片道2時間の道を三年間歩いて上田支校まで通った。特に冬の通学は大変で、慶太の足はアカギレが絶えなかった。母は富山の薬売りから竹皮に包んだアカギレの薬を、慶太の足にぬりつけた。
大きなおにぎりに味噌をぬったお弁当がすきで、いつもおいしそうに食べていたそうだ。
隣村の大井新次郎と仲良くなり、肩を並べて通学していた。
大井氏は、「当時は暴れん坊のようでしたが、喧嘩をしたということはなく、機先を制するほうで、手は決して出しませんでした。絵がうまく、字もなかなか大したものでした。」と話している。
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上田支校3年 後列左より3人目 |
明治31年 長野県立松本中学校に入学 |
松本中学は上田支校の本校である。
松本中学の小林校長の紹介で松本に下宿した。 親友の大井新次郎と2人の自炊生活であった。
松本の二年間に、慶太の向学心はますます募った。
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明治33年 青木村小学校の代用教員になる |
上京進学を考えたが、この頃、父親が製糸事業に失敗したりで進学できず、恩師小林直次郎の紹介で郷里の小学校の代用教員になった。 そのころの慶太先生の教え子によると「教え方はこんせつ丁寧。民主的な教員だった。しかし、校長先生や教頭先生がいるのに、一番威張っていたのは新参の慶太先生だった。」と話していたという。
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当時の青木小学校玄関 |
明治35年 東京高等師範学校入学 |
「金を使わずに学問をしよう」と東京高等師範学校に入学した。
当時、高等師範の修身の講義は、校長の喜納治五郎が自ら受け持っていて、柔道をしていた校長の倫理学の講義は、「なあにこれしきのこと」「なあにくそ」の精神が一番大切で、どんなことに直面してもこの精神で考えろ、と教えたのである。
五島慶太は、あの先生の「なあに」の教えは、いつまでも心に刻まれていたと述懐していた。
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明治39年 三重県立四日市商業学校に赴任 |
商業学校では英語教師をしたが、単調な教師 ではあきたらなかった。 「最高学府の大学には入ろう。大学を出て、東京の檜舞台で一勝負してみよう」と決心した。
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明治40年 東京帝国大学本科に入学 |
教師時代に備蓄していたお金も足りず、家からの送金も望めなかった慶太は、富井政章男爵家に長男の家庭教師として同居して大学に通った。
富井家の長男を無事に二校に入学させた後、イギリス大使赴任で留守になる加藤高明の家に彼の子供と暮らし、給費生になった。 学生時代の慶太は暇があれば遅くまで大学の図書館に閉じこもって、相当勉強をしていた。
後に富井家、加藤家の二恩人が病気になった時は、見舞いに行き、家計も含め親身に配慮した。
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明治44年 農商務省に入省 |
大学卒業後、官僚に入った。
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明治45年 久米万千代と結婚 |
富井男爵の仲介で、工学博士久米民之助の長女、万千代と結婚した。(久米民之助は二重橋の設計者である。)
久米家の懇望で、久米家の祖母の五島家(元上州沼田藩藩士の家)が絶家になっているので再興して欲しい、との意向をうけ五島家を継ぐ。
結婚式に両親が行けなかったので、後日報告に帰省 した慶太は、両親の前に座り、黙って眼鏡を取り涙をながしていたそうだ。
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