【天和の義民増田与兵衛】天和2年(1682年)
作物がよく実らない年が3年続き百姓が苦しんでいるのに、庄屋は年貢を余分に取り立て、横領したり藩の役人への賄賂につかっていました。増田与兵衛は庄屋の横暴を藩主の仙石政明に越訴しました。役人の調べで訴えが事実であることが証明され、余分に取り立てられた年貢は百姓に返されました。しかし、掟によって増田与兵衛父子は夫神川原で処刑されました。
【享保の義民平林新七】享保6年(1721年)
中挾村の西上というところは、古くから検地が入らないところでしたが、しきたりを無視した役人が検地を強行しようとしたので組頭の新七は、止めるように願いでました。しかし、役人には聞き入れられなく、新七は覚悟の上で役人を鎌で斬り殺してしまいました。新七は処刑されましたが、藩主は役人の無法を認め、中挾村には年額45俵の減免が言い渡されました。
【宝暦義民】宝暦11年(1761年)
宝暦騒動は、上田藩の民政を根底から揺るがした最初の全藩惣百姓一揆でした。藩財政の苦しさもあって百姓の金納年貢額も高くなり、諸負担や不作にかかわらず籾の増額が示されました。
田沢村の庄屋金次郎、夫神村庄屋太郎兵衛、組頭浅之丞、百姓半平らが密談して計画を練り、強訴することになりました。
宝暦11年12月11日夜、鎌やまさかり、斧などを腰にさして塩田、福田村に声をかけ、翌12日上田城の大手に押しかけました。
年が明けて宝暦12年、一揆勢が願い出た要求はほぼ通り1ヵ月に及んだ騒動もおさまりました。一揆の首謀者として夫神村組頭浅之丞と百姓半平が死罪となりました。
辞世の句
「散る花はむかしまことの習いかな」 浅之丞
「いさぎよく散るや此世の花ふぶき」 半平
【文化の義民堀内勇吉】文化6年(1809年)
文化6年6月27日、入奈良本の百姓が庄屋堀内藤五郎親子の不正や横暴を訴願するため上田城下に押し出しました。
差し留めに入った城下町の問屋や割番庄屋と話し合いの結果、願書を奉行所に差し出すことになり、問屋や割番庄屋は内済に終わらせようと努力しました。しかし、組頭勇吉以下の数名の百姓は納得せず内済扱いは、失敗に終わりました。
奉行所での約1年にわたる吟味の結果、願いは通りましたが百姓たちにも重い刑罰が下り、組頭勇吉は永牢の裁きで牢死しました。
【明治2年騒動】明治2年(1869年)
版籍奉還の行われた直後の、明治2年8月16日、入奈良本から百姓一揆が勃発しました。17日になると一揆勢の数は次第に増加し、藩役人の制止を押しのけ上田城下に乱入しました。
贋の新金貨の流通を警戒して取引を渋ったという理由などで、割番・庄屋・富商宅を269戸もうちこわしました。
強訴した願書の内容は、①贋二分金不通用令に損害の補償②米価高騰の取り締まり③石代納相場の引き下げ④御用金の免除または延納⑤割番庄屋の廃止などでした。
上田藩はこれらの要求に迅速に結論を下し、すぐに実行するとして大幅な譲歩をしました。
上田藩はまもなく平静をとりもどしましたが、騒動再発の恐れが遠のいた11月、一揆を主導した者として6人を処分し、九朗右衛門は主犯としてさらし首になりました。
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